超トンデモな丸山ワクチン擁護例

自称「先生」w(「オツム」がかなり「ご不自由と思われる」) 

ものすごい超トンデモを見つけたので紹介しておく。

科学的、論理的誤り 

きちんと読むと、途中、読者のミスリードを意図したのだろうか、こじつけやいろいろと論理の飛躍があり、苦笑するしかない。 一部を指摘しよう。

「丸山ワクチンの真相」批判の「真相」(苦笑) - 柊まいーん先生の○○○攻略講座

本当に「読者のミスリード」「こじつけ」「論理の飛躍」があるなら、それを指摘してもらうのは大いに結構なのだけど…

しかし、後で詳細に解説する通り、この方は、該当部分の「論理」については全く目もくれず、持論と結論が相反している事実だけをもって、「読者のミスリードを意図したのだろうか、こじつけやいろいろと論理の飛躍があり」と断言している。 つまり、この方は、本当に「読者のミスリード」「こじつけ」「論理の飛躍」があるかどうかの検証すらしていないのである。

丸山ワクチンはなぜ「認可」されなかったのか について、この記事では、「さて、この週刊新潮の記事には一番肝心なことが書かれていない。その肝心なこととは、丸山ワクチンは効果があるのかないのか?である」 と指摘するが、この記事は(一部の人には一定の)効果があるという大前提で書かれていて、記事の主題はあくまでも「認可」されなかったかどうかである。 この指摘は的外れである。

「丸山ワクチンの真相」批判の「真相」(苦笑) - 柊まいーん先生の○○○攻略講座

自ら記載されているように「(一部の人には一定の)効果があるという大前提で書かれて」いるとされる「この記事」(引用文中では「この記事」が2回使われているが、ここでは後者の方を指す)のタイトルは「丸山ワクチンはなぜ『認可』されなかったのか。」である。 タイトルを読めば明らかなように、「(一部の人には一定の)効果があるという大前提で書かれて」いるとされる「この記事」は「『認可』されなかったかどうか」の事実関係についてのみ言及しているのではなく、「なぜ」と「認可」されなかったことへの疑問に言及していることは明らかである。 つまり、「『認可』されなかった」原因について言及していることは言うまでもない。 そして、当方は、「『認可』されなかったかどうか」の事実関係についての疑義は一切提示しておらず、「『認可』されなかった」ことを前提事実としている。 論点は、「(一部の人には一定の)効果があるという大前提で書かれて」いるとされる「この記事」が指摘している陰謀論の真偽である。 当時の当方の記述にも、「丸山ワクチンが効く」ことにするためには「効くにもかかわらず承認されない特殊事情」として陰謀論を捏ち上げる必要があった等の記載があり、陰謀論の真偽が争点であることを明確に読み取れるように書いてあるはずである。

しかし、この人には「(一部の人には一定の)効果があるという大前提」の真偽を検証しなければならないことが分からないようだ。 効果がなければ「『認可』されなかった」のは適切な判断であり、陰謀論でも何でもない。 陰謀論が成立するためには、丸山ワクチンに効果がなければならない。 だから、陰謀論の真偽を検証するに当たっては、丸山ワクチンの効果の有無が重要な争点となる。 以上を踏まえた上で重要な争点事実について 何の根拠も示さずに「(一部の人には一定の)効果があるという大前提」を置いていることがおかしいという指摘がこの人には全く伝わっていない。 それとも、根本的前提が間違っていたら全ての話がひっくり返るということが分からないのだろうか。

たとえばこの記事でも引用している下記リンク先の、国会でのやりとりを初めから全部通読すると、普通の読者の方には、週刊誌記事のほうが妥当と思えるのでは無かろうか。 全然「要約」ではない。

「丸山ワクチンの真相」批判の「真相」(苦笑) - 柊まいーん先生の○○○攻略講座

具体的に効果の証明、あるいは、不利益な取り扱いを示す根拠を示している部分を挙げて、これに対する明確な回答がないというなら分からないでもない。 しかし、主観的に「妥当と思える」かどうかを論点としているのは馬鹿げている。 まともな根拠をあげられない人ほど主観に頼りたがる。

まず、次のような話は全く根拠のならないので採り上げる意味がない。

  • 何をもって「有効」「治癒」と見做したのか不明確な「有効率」「治癒率」
  • 「延命効果を主とする」と主張しながら全く延命効果を計っていない
    • 「主観的なもの」も「有効例」にカウントできることを自認している
    • これは、客観性のある延命効果を計っているならあり得ないこと
    • 「カルノフスキーの判定基準」がKarnofsky PSのことなら、これは延命効果ではない
  • 抗がん剤投与事例であるのに、根拠もなく、抗がん剤に効果はなかったと決めつけている
  • 確率を計っていない症例報告の数々
  • 「何か有効性があるような気がする」
  • 「何処其処の誰某も○○と言っている」

追求者側は、政府側の既説明内容を全く踏まえておらず、聞く耳を持たない押し問答を繰り返している。

例えば、東海地区のデータについては次のように説明されている。

  • 無作為割り付け違反が多かった
  • 違反件数が多いと、それを除外しても偏りが大きくなる
  • 差が非常に小さいので、統計的偏りの影響を無視できない

東北地区のデータについては次のように説明されている。

  • 数と実験デザインに問題あり
  • 胃がんが大部分でその他の症例が混じっている
    • 全体でみると有意差があるように見えるが…
    • 胃がんでは差はないと研究者自身も認めている
    • その他は数が少なすぎる
  • 腹膜転移のある患者について可能性が認められるが、数を増やした追加の実験が必要

これは数学的には有意差があるが医学的に効果があったとまでは認められない、すなわち、統計誤差で説明のつくデータなので証拠としては認められないという説明である。 しかし、これに対する追求では「愛知の問題は封筒法等々いろいろ問題はあったけれどもある程度の効果があったということも認められています」「東北のデータについてもある程度の効果があったということを認められておる」と、あたかも統計誤差で説明のつかない医学的効果が認めれたかのように説明の趣旨がすり替えられている。 当然、即座に、説明者側から「数学的に言いますと、全経過中、二点のところで有意になるような差がある」としながらも「それをどういうふうに医学的に評価するかということは別問題」として、統計誤差等の可能性も考慮する必要があるので数学的な有意差が直ちに医学的効果を示すわけではないと返されている。 すると、「その判断の理由を聞いている」と、既に説明されている内容を蒸し返している。 「なぜなのか、何度聞いてもわからない」と言う前に、まず、説明の内容を持ち帰って、しっかりと勉強してくるべきだろう。

あと、東北地区のデータについて、「膵臓がんを膵臓の慢性炎症だろうということで扱われたことを、もう一回ちゃんとそうだということを前提として審議をされることを強く望みたい」と言っていることも、既に説明されたことを全く踏まえていない。 膵臓がん事例は、ごく一部であり、統計的に意味がないことは説明されているのだから、「そうだということを前提」としても、結論は変わらないのであるし、当然、「そうだということを前提として審議」された結果として、有効性が認められていないのである。

丸山ワクチンの審査についても、次の説明が何度なされても無視されている。

  • 丸山ワクチンは申請時にデータがそろっていなかった
  • 丸山ワクチンもクレスチンと同じ条件で同じ「癌治療学会基準」で審査した
  • 丸山ワクチンは「癌治療学会基準」で効果が認められないので試験結果のデータを求めた

同じ条件同じ基準で審査して効果が認められなかったので、丸山ワクチンのためにわざわざ敗者復活戦を行ったという話を何度もしているのに、追求者側は全く聞く耳を持たない。 「癌治療学会基準」がどういうもので、どんな資料を提出したかを明らかにしたうえで、あるいは、明らかにするよう説明を求めて、同じ条件同じ基準で審査されたかどうか検証するならわかる。 しかし、そうした過程をすっ飛ばして、「非常に厳しい要求が丸山ワクチンの場合にされておる」「丸山ワクチンだけについて、こうまで、単独投与の場合だなんだ云々だとけちをつけながらも、審査を変えて、基準まで変えて、そうして却下をしている」と決めつけて聞く耳を持たないのでは、議論をしようとする意思が見られない。

資料とした提出したと主張する論文が「それは資料として入っておらなかったと存じます」と言われたからと言って、「大きな声を出して大変恐縮」と後から謝罪するほど、声を荒げる理由もわからない。 「日本の癌学会の正式な化学療法剤の雑誌にも掲載をされておる」もので、かつ、それが丸山ワクチンの効果の証明となるものなら、ギャーギャー騒がずとも、再度提出すれば済むことである。 そして、後から「追加申請書の中に帝京大学のデータが入っておりまして」と訂正され、「臨床の方では読んでいるはず」と検討の対象となっていることも明言されたのだから、その資料の評価を聞けば良い。 しかし、追求者は、何故か、座長が読んだかどうかのみを追求して、評価については全く追求していない。 評価をちゃんと聞いていれば、「比較対象のデータを別の論文から引っ張ってきたために両者の層(がんの大分類、小分類、病期、治療歴等)が揃っておらず、効果の証拠としては不十分である」というような明確な回答が返ってきたであろう。 追求者側が全く見当違いの場外乱闘で暴れているだけで核心に関わる質疑が全くできていないから、疑問が解消できないのである。

クレスチン等の承認過程への疑惑をしつこく追求しているが、「だから丸山ワクチンをいいかげんに通せとおっしゃるのは論理の逆立ち」とは砂原参考人の指摘する通りであろう。

こんなお粗末な追求で「週刊誌記事のほうが妥当と思える」と思えるなら、その人にはまともな判断力は期待できない。

そもそも「要約」という言葉の意味すらまともに分かっておられない人の作成した記事は信用しないほうがいい、と断じておきたい。

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効果や陰謀論の真偽とは関係のない部分をそぎ落とし、関係のある部分のみを抜粋したことが「要約」にならないと言うなら、どうすれば「要約」になるのか教えてもらいたい。

丸山ワクチンに有利になるようデータを作成したと匂わせているが、この「再発」の数字は、一切リンク先のデータには示されていない。

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確かに、 2015年の公式サイト から病期比率が表示されなくなっている(尚、リンク先は過去のアーカイブに修正した)。 しかし、次のようなことを考えれば、リンク先の情報が変更されただろうことは容易に予想できるはずである。

  • リンク先の内容は、リンク先の都合でいつでも変更できる
  • 引用元を明示しているなら、嘘やごまかしをしても意味がない
  • 否定的立場で嘘やごまかしをする気なら、効果がないという結論を示すはず(データに意味がないことしか言ってない)

ご自分の洞察力の低さを棚に上げる前によく考えるべきだろう。

この、同一病気比率における丸山ワクチン未使用5年生存率の計算の仕方がさっぱり不明である。 同記事でリンクしてある「全国がん(成人病)センター協議会加盟詞説における5年生存率(1998~2002年診断症例)」の個別の数字と、同記事のグラフのメモリが示す数字、数字に加工処理をしているので、まったく一致しない。


この手の統計処理を施す場合は、具体的な計算処理法を明示した上でグラフ化するのが最低限の常識だと思うのであるが、そうした常識も持ち合わせていないようだ。

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「使用者の病期比率の公開されている胃がん、肺がん、腸がん、乳がんについてのみ検証する」という文言と全国がん(成人病)センター協議会のデータ全て病期比率が公開されていることから、病期比率を揃えた加重平均を取る「具体的な計算処理法」採用していることは「最低限の常識」で考えれば明らかであろう。 書かれた文言等からその趣旨を読み取ることもできず、かつ、加重平均処理にも思い至らずに「計算の仕方がさっぱり不明」と言っているなら、データを検証するための「最低限の常識」を「持ち合わせていない」のはこの人の方であろう。 「ボクちゃん、ど素人だからサッパリわからない」と言うなら分からなくもない。 しかし、自らを専門家であるかのように偽装しておきながら、このような主張をするのでは失笑するしかない。 化けの皮を自ら剥がしていることに早く気づいてもらいたい。

そもそも、この補正は「丸山ワクチン使用者は末期患者が多いから普通の生存率とは比較できない」という主張への対応として、丸山ワクチン側に不利になる要因を取り除くためのものである。 生データと比較すれば、このグラフにおける全国がん(成人病)センター協議会のデータは、生データの全病期平均よりかなり生存率が下がって、生データのⅣ期の数値にかなり近いことが分かるはずである。 つまり、この処理後の全国がん(成人病)センター協議会の生存率は、全病期平均よりもかなり悪くなる。 すなわち、生データと比較するよりも、この処理後の値と比較した方が、丸山ワクチンに有利な結果となる。 否定的立場で嘘やごまかしをする気があるなら、このような丸山ワクチンが有利となる細工補正をしないことくらいは普通に気づかないだろうか。 丸山ワクチンに有利な補正をすることの何が「否定派」なのか。 そして、丸山ワクチンに有利な補正をしても効果の証拠にならないと示すことのどこに「こじつけ」「論理の飛躍」があるのか。

本来、こういうことは効くと主張する側がするべきことである。 自分たちがやるべきことを怠っておいて文句を言うのは筋違いであろう。

丸山ワクチンの数字については、同サイトの記事から、以下の点について留意して見ないといけない。

  • ワクチンを使用する人のほとんどが3,4期からであり、そうした事情から使用期間30日未満は除く(30日持たなかった末期の人は数字から除く)
  • 表は単純集計のため、「3年未満」の中には、回復によりワクチンを終了した人や途中で追跡調査ができなくなった人が含まれる→効果があったかどうかについて、3年以上、5年以上使用率より数字がすこしばかり期待出来る可能性がある。

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「回復によりワクチンを終了した人や途中で追跡調査ができなくなった人が含まれる」等の都合の良い想像は、「効果があったかどうかについて」「すこしばかり期待出来る可能性がある」ことを全く示さない。 客観的データが示されない以上、5年生存率が5年以上使用率を上回っているとする根拠にはならない。 百歩譲って、5年生存率が5年以上使用率を上回っているとしても、定量的根拠も示されていないので明確な差がある根拠もない。 丸山ワクチンの5年以上使用率が全国がん(成人病)センター協議会の5年生存率(丸山ワクチン使用者の病期比率による加重平均)を大幅に下回っている以上、定量的根拠に欠く都合の良い想像では「すこしばかり期待出来る可能性がある」などとは言えない。 そのような都合の良い想像は、丸山ワクチンを信じたい人にとって信仰を補強する「こじつけ」「論理の飛躍」として利用できるだけである。

作品名は忘れたが、身体検査の体重測定の結果を気にした女の子が「私の服は○kgあるので、それを引かなければ駄目だ」と言い出すと、他の子も同様のことを言い、元の女の子は更に身につけている何とかは何kgあると言い出し、延々と引き算を繰り返した結果、体重がマイナス値になるという笑い話があった。 常識で考えて、体重測定時に身につけている衣服や小物等が測定誤差の範囲を超える重量になるわけがない。 仮に、それらを差し引くとしても、差し引く対象物の重量を実際に計ってから差し引くべきだろう。 実測せずに都合よく想像した値を差し引いては体重測定の結果は全く信頼できないものとなる。 それと同じで、「回復によりワクチンを終了した人や途中で追跡調査ができなくなった人が含まれる」等の都合の良い想像をもって5年以上使用率の値を想像値で水増ししても、その想像値を加算後の値も実値をかけ離れた想像値でしかない。 元のデータが統計データとしてどれだけ信頼できるものであったとしても、都合の良い想像で補正した時点で物事の検証には全く使えない空想上のデータに生まれ変わるのである。 そのような空想データに基づいて「すこしばかり期待出来る可能性がある」などと言うのは妄想も甚だしい。 これは、補正前の実値で一定の結論が導ける場合であって、かつ、妥当な推論に基づいてその結論を補強することとは全く違う。 都合の良い想像に基づいて実値から導けない新たな結論を導いては、現実を無視した完全はフィクションである。

「30日持たなかった末期の人は数字から除く」のでは、丸山ワクチンに有利なようにデータを加工4割強(公式サイトには「ワクチン使用者のうち30%以上は1クール(40日)内で終了しているというデータもあります」と記載から逆算)水増ししているのであり、益々、そんなこと「すこしばかり期待出来る可能性がある」などとは言えない。

このサイトで指摘していることは、どうとでも解釈できるデータでは何の根拠にもならないということである。 効くという想像に基づいた「こじつけ」「論理の飛躍」で「すこしばかり期待出来る」ことにできても、同様に、効かないという想像に基づいた「こじつけ」「論理の飛躍」で全く期待出来ないことにできるなら、それは何の根拠にもならない。 効いていることを否定できないデータを示してこそ、効く根拠になるのである。 一部、リンク先から除外されたデータにより詳細が分からなかったとしても、その趣旨は十分に伝わるように書いてあるはずである。

「効く」と主張する側は、実際に治療を施して、効果があったという事例から、確証を得て発言しているようだ。

それに対し、「効かない」と主張する側は、公開されているさまざまなデータを根拠に、「効く」と主張する側の効果があった案件は、確率論、統計学的には「幸運な例外」であるとして処理しているようだ。


以後、前者を「肯定派」、後者を「否定派」として、話を進めたい。

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本当に効果があったのかどうかを確かめもせずに「効果があった」と決めつけ、そうした主観だけの「確証」だけをもって「『効く』と主張する側」を「肯定派」と定義するのは分かる。 しかし、「公開されているさまざまなデータを根拠」に判断している者を「否定派」と定義するのでは日本語が滅茶苦茶である。

「肯定派」について、まず批判をしておくと、

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他人を批判する前に、まず、自分自身を批判すべきだろう。 根拠もなく「一定の確率で癌患者にプラスに作用することがある」と決めつける姿勢を正さなければ、他人を批判する資格はない。

確かに過去において、かなり多くの奇跡的な事例(有名なのは小松製作所の元会長であり、厚生労働大臣も務めたことのある河合良成氏の親族の老婦人の事例。 これは丸山ワクチン関係の本をみると結構取り上げられているようである)がある。

こうした事例を効能として吹聴するのはまあやむを得ないとして、問題はそれを読んだ人が、丸山ワクチンを接種すれば必ず癌が治ると勘違いしてしまうことであろう。

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「奇跡的な事例」とやらは様々な可能性を考慮しなければならない。

真偽を検証しないのでは体験談レベルの話でしかない。 よって、「小松製作所の元会長」「親族の老婦人」の事例をいくら挙げても、「実際に治療を施して、効果があったという事例」にはならない。 「こうした事例を効能として吹聴する」ことは詐欺である。 これは、「必ず」かどうか以前の問題である。

ハッキリと断っておくが、丸山ワクチンがほぼ確実に期待できないと考えるだけの根拠がある。 丸山ワクチンは申請に不備がありながらも徹底的に優遇されて、それでも、根拠を示せなかったのである。 申請時に根拠となるデータを出さず、追加で求められたデータも根拠になっておらず、追加基準を設けた敗者復活戦でも根拠を示せなかった。 そして、有償治験薬という形で数十万人が使用したと喧伝しながら、「効果があった」とする根拠は未だに示していない。 にもかかわらず、割り付け違反で効果無効と判定された治験結果や、何の根拠にもならない長期使用率を示して、効果があると吹聴している有様である。 大した有害性はないことと、安価なために容認されているだけであり、医薬品としてはその基本姿勢から論外なのである。 「それほど高くない一定の確率で癌患者にプラスに作用することがある」などという勘違いを吹聴することは全くの無責任である。

論点逸らしと見当違いな揚げ足取り 

この人は反論の風を装った新しい記事を書いたようである。

  • 核心部分には全く言及せず、どうでも良い事の揚げ足取りしかしない
  • その揚げ足取りも見当違い甚だしい

揚げ足取りでも的確に相手の弱点を突けば一定の印象操作効果はあろう。 しかし、このような支離滅裂な揚げ足取りでは、一体、何がしたいのか全く意味不明である。 「この記事を書いた方のお好きな表現をつかうならば」というやり方が非常に「お好きな」ようだが、それは、的確に相手の過ちを指摘できてこそ効果がある。 また、本質を真似ないで形だけ真似た猿真似では、似て非なるものであり、失笑を買うだけである。 例えば、当方の「『認可』という言葉を使ってるサイト等の記述は信用しない方がよい」真似たつもりで、この人は「そもそも『要約』という言葉の意味すらまともに分かっておられない人の作成した記事は信用しないほうがいい」と書いたのだろうが、これは本質が全く違う。 当方は、単なる単語の意味の間違いをもって「信用しない方がよい」と指摘しているのではなく、その間違いが「又聞きした内容を自ら検証もせずに鵜呑みにしている」証拠であることを指摘し、未検証の又聞き情報を鵜呑みにするなと指摘しているのである。 それに対して、この人は、単なる単語の意味の間違い(既に指摘した通り、実際に間違っているのはこの人の方である)を論っているだけで、指摘内容が非常に浅い。

まず、この記事を作成されている方の、ネット上にまともに記事を書く能力への疑問と、国語の読解能力について。 とりあえず軽く揚げ足をとっておくが、たとえば当方の記事について、次のようにある。


となっているが、まずはリンク元をたどっていただければ、この記述は全くないことはご確認できると思う。 これはこの記事を書いた方のお好きな表現をつかうならば、「捏造」行為である(苦笑)。


と書いておられるが、まともな読解力のある方ならばわかるように、私は「公開されているさまざまなデータを根拠」に判断をしている者を「否定派」と定義していない。さらに

本当に効果があったのかどうかを確かめもせずに「効果があった」と決めつけ、そうした主観だけの「確証」だけをもって「『効く』と主張する側」を「肯定派」と定義をしている

わけでもない。あくまでも丸山ワクチンが「効くと主張する側」を肯定派、「効かない」と主張する側を否定派としているわけで、そうした双方についての主観的な印象(修飾語)を「定義」と認識するなど、​この記事を書いた人の日本語読解能力、もしくは論理的思考能力はもう「滅茶滅茶」​としかいいようがない (まあ昔は、学力がなくとも私大の医学部に結構平気で入れましたからね こうした人がいてもおかしくはないのですが)。​​​

「超トンデモ」はどっちか、オツムが少々ご不自由と思われる頭を少しは働かせてみてほしい(苦笑) - 柊まいーん先生の○○○攻略講座

「ネット上にまともに記事を書く能力」と「国語の読解能力」が欠けているのはこの人の方であると以下に証明する。 この人は「当方の記事」「リンク元」にて次のように纏めている。

「効く」と主張する側
「実際に治療を施して、効果があったという」全く医学的根拠に欠く「事例」に基づいた主観だけの「確証を得て発言している」
「効かない」と主張する側
公開されているさまざまなデータを根拠に、「効く」と主張する側の効果があった案件は、確率論、統計学的には「幸運な例外」であるとして処理している

医学的根拠に欠く「事例」に基づいた主観であるという記載は、直後に説明する通り、科学的かつ客観的事実である。 それを除き、この人自身の書いた文章をほぼそのまま1つにまとめただけである。 よって、科学的かつ客観的事実の追加はあるが、恣意的な編集(本人が言及しない「主観的な印象(修飾語)」の追加、趣旨の変わる抜粋、同一性のない内容の合体等)は一切行っていない。 そして、この人自身の書いた文章にない点は、次の通り、科学的かつ客観的事実である。 「実際に治療を施して、効果があったという事例」について本当に「効果があった」かどうか(丸山ワクチンの「効果」であったかどうか)の検証をした事例は1例も示されていない。 この人は、それら「事例」が実在の事例であるかどうかの検証も全く示していない。 それらを検証していない「実際に治療を施して、効果があったという事例」では体験談と何ら変わらず、そのような未検証「事例」に基づく「確証」は医学的根拠に欠く主観的な判断に過ぎない。 そして、主張している本人に医学的根拠や客観性の証明の責任があるのだから、その責任を放棄した側に文句を言われる筋合いはない。 これらの指摘が非科学的あるいは主観的であると主張するなら、まず、主張している本人が医学的根拠や客観性の証明責任を果たすべきであろう。

途中に「私見」として「丸山ワクチンに対する現在の認識」を記載しているが、その直後に「前者を『肯定派』、後者を『否定派』」と記載しているのだから、「前者」を「『効く』と主張する側」、「後者」を「『効かない』と主張する側」と定義していることは明らかである。 であれば、「肯定派」と「否定派」の定義が次の通りであることは疑う余地がない。

「肯定派」
本当に効果があったのかどうかを検証せずに、「実際に治療を施して、効果があったという」全く医学的根拠に欠く「事例」に基づいた主観だけの「確証」だけをもって「『効く』と主張する側」
「否定派」
「公開されているさまざまなデータを根拠」に判断して「『効かない』と主張する側」

既に説明した通り、科学的かつ客観的事実の追加はあっても、「双方についての主観的な印象(修飾語)」は一切なく、この人の主張内容をまとめただけである。 恣意的な編集(本人が言及しない「主観的な印象(修飾語)」の追加、趣旨の変わる抜粋、同一性のない内容の合体等)は一切行っていない。

定義範囲から外すことを明示したり、定義の後に書かれたことであれば、定義には含まれないとの主張も成り立とう。 ただし、それも本質から外れる言葉遊びの類に過ぎない。 しかし、先に言及した内容に対して「前者」や「後者」と言っている以上、その言及部分の前半に記載された内容が「前者」に含まれないとの主張は成立しないし、その言及部分の後半に記載された内容が「後者」に含まれないとの主張も成立しない。 ご自分で書いた文章すら複数の文章を関連づけて考えることができないなら、「日本語読解能力、もしくは論理的思考能力はもう『滅茶滅茶』​」としか言い様がない。

というか、この人はここでの指摘の本質を全く踏まえていない。 ここでは、次のような点での一般的定義との乖離に対して日本語が滅茶苦茶だと指摘しているのである。

肯定論に偏っている人
一般的定義では肯定派であり、この人の定義でも「肯定派」となっている。
中立的に検証して肯定論を導いた人
一般的定義では中立派であり、この人の定義には登場しない。
中立的に検証して否定論を導いた人
一般的定義では中立派であるが、この人の定義では「否定派」となっている。
否定論に偏っている人
一般的定義では否定派であり、この人の定義には登場しない。

初めから肯定論ありきの人を肯定派とするなら、初めから否定論ありきの人を否定派としないとバランスがおかしいと指摘しているのである。 それを踏まえて正面から反論する気があるならば、当然、理由を述べて自分の定義はバランスを欠いていないと反論するはずである。 正面から反論しようとせず、言葉尻をつかまえて揚げ足を取ろうとして、逆に盛大にすっ転んでいるのでは話にもならない。

どうでもいいが、「私大の医学部」の下りはちゃんとした大学を出てから言ってもらいたい。 教養も知能も全くないことが丸わかりの文章でそんなことを書いても失笑を買うだけである。

私の書いた記事について、

よって、「小松製作所の元会長」「親族の老婦人」の事例をいくら挙げても、

とされていて、私の記事の具体例は複数案件という認識で記事を書かれているが、私の文章は、あくまでも老婦人の事例であり、 「小松製作所の元会長であり」「厚生労働大臣も務めたことのある」の句は「河合良成氏」にかかる修飾語。 その「河合良成氏の親族の」「老婦人」の事例について触れたのであるが、この記事の作成者の方は、どう読んでも「小松製作所の元会長」の事例や、「親族の老婦人」の事例は別事例であったと認識しているらしい。​​

とりあえず正確に相手の主張を理解できず、自分の思い込みをもとにいろいろ述べるのは、他人を批判する資格よりもはるか以前の問題だと思うのだが…。​​

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鉤括弧が複数になっているのは不要な部分を削除しつつも正確な引用をするために一度鉤括弧を閉じただけに過ぎず、「複数案件」「別事例」として扱っていることを意味しない。 両鉤括弧の間に「と」や「や」等の並立助詞が挟まれているのであれば「複数案件」「別事例」であることは言うまでもない。 しかし、並立助詞が間に挟まれていない以上、両鉤括弧が単一案件なのか「複数案件」「別事例」なのか、この一文から読み取ることは不可能である。 これを「どう読んでも」「複数案件という認識で記事を書かれている」「別事例であったと認識している」と読み取るようでは「日本語読解能力に著しい疑問を抱かせる事例」としか言い様がない。

以上の通り、「正確に相手の主張を理解できず、自分の思い込みをもとにいろいろ述べる」のは、この人にこそ当てはまる性質であろう。 そもそも、「かなり多くの奇跡的な事例」のうちの挙げられた一例が単一案件であるか、「複数案件」「別事例」であるかは主張内容には全く影響がない。 百歩譲って、そのような些細な読み違いがあったとしても、「かなり多くの奇跡的な事例」が「効果があった」と主張されている事例にはなっても「効果があった」事例にならないことには変わりがない。 この点について言及しないのは、具体的な反論ができないから、「日本語読解能力、もしくは論理的思考能力はもう『滅茶滅茶』​」という印象を与えて誤魔化そうとしているのではないか。

と私の記事を無責任だと断じているが、ハッキリと断っておこう。 この記事の作成者は丸山ワクチンについて、「安価なために容認されているだけであり」と断定しているが、「安価なために容認されている」とする根拠はどこにあるのか。

記事の作成者は、現在継続中の治験薬について、「安価なために容認されている」という客観的根拠を示す必要がある。 厚生労働省から「安価だから容認する」という書類が出ているのだろうか。

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これでは、あたかも安価という理由でだけで「容認されている」と当方が主張しているように読めるが、原文は「大した有害性はないことと、安価なために容認されているだけであり」である。 容認される主たる理由は「大した有害性はないこと」であり、「安価なため」は補助的な理由である。 また、事の発端は、「今回は否定派の見解、主張について、ネット上で頻度が高く閲覧される記事」(既に説明しているが、一般には中立派に該当する人がこの人の言葉の定義では「否定派」になる。そして、言うまでもなく、この人が指し示す「ネット上で頻度が高く閲覧される記事」は一般的定義では中立的記事である)をこの人が槍玉にあげた事である。 であれば、当然、「ネット上で頻度が高く閲覧される記事」の内容については知っているはずであろう。 では、なぜ、そこに書いてあることを無視するのか。 それ以前に、引用文の直前には「ネット上で頻度が高く閲覧される記事」本文の一部要約があり、事実関係にも少し触れている。 それなのに、どうして、根拠となる事実関係についての言及を避け、結論部分のみを抜き出して「客観的根拠を示す必要」と主張して、あたかも根拠が示されていないかのように偽装するのは何故か。

そもそも、そのようなことは「それほど高くない一定の確率で癌患者にプラスに作用することがある」という自身の主張の「客観的根拠を示」してから言うべきだろう。 効くと主張する側が根拠を示さずに、効かない根拠を示せと逆ギレするのでは、悪魔の証明である。 効くと主張する側が何の根拠も示していないのに、どうして、効かない根拠を示す責任などあろうか。 重大な責任の欠如を追及された人間が、自身の責任について全く言及せずに、問いただす必要性の極めて乏しい他人の責任に言及するのは、論点をすり替えて自身の責任を有耶無耶にする典型的な手口であろう。

「私の記事を批判された記事」を批判するなら、まずは、その核心部分(以下に例示)について批判したらどうなのだろうか。

  • 「(一部の人には一定の)効果があるという大前提」は真偽の検証が必要
  • 無関係な情報をそぎ落として関係のある部分のみを抜粋したことが「要約」にならないと言うなら、どうすれば「要約」になるのか「と思える」という主観論ではなく具体的に指摘すべき
  • 「リンク先のデータ」が後から修正された部分について、アーカイブ(修正前のもの)発掘で検証可能になった後の妥当性
  • 根拠もなく「一定の確率で癌患者にプラスに作用することがある」と決めつける姿勢を正さなければ、他人を批判する資格はない
  • 「奇跡的な事例」とやらは様々な可能性を考慮しなければならない
  • 丸山ワクチンがほぼ確実に期待できないと考えるだけの根拠がある

何故、どうでも良い部分(それも内容はまるで見当違い)の揚げ足取りしかしないのか。 これについては、「当方、超多忙」などという言い訳は通用しない。 多忙であるなら、尚更、核心部分から外れる事に言及する時間的余裕はないはずである。 言い返せないからこそ、どうでも良い部分の揚げ足取りしかしないのではないか。 故意ではなく大真面目に反論しているつもりなら「日本語読解能力、もしくは論理的思考能力はもう『滅茶滅茶』​」としか言い様がない。

更なる論点逸らしと見当違いな揚げ足取り 

また記事を更新されたようだが、相変わらずの論点逸らしと見当違いな揚げ足取りばかりで、以前から指摘している核心部分についての反論は全くされていない。

当ブログの主張は、「(多少は)効くのではないか」(第二回目の表題どおり)という意識の元、「全員に必ず効果があるというわけではないが、全員に必ず効果があるというわけではないが、一定の期待は持てる。 しかし特効薬ではなく、寛大な期待は禁物」という第二回目の記事や、「丸山ワクチンは、すべての癌患者に劇的に効かないが、それほど高くない一定の確率でがん患者にプラスに作用することがあるのではないか」(第三回目の記事)と今でも変わりはない。 丸山ワクチンについて肯定的(というよりも、一部テレビ番組で報じられるような、過大な効果を期待させるむしろ有害な)なニュースが流れる昨今において、まあ妥当な考え方ではなかろうか。

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全く意味不明である。 何度も指摘している通り、「(多少は)効くのではないか」「一定の期待は持てる」「それほど高くない一定の確率でがん患者にプラスに作用することがあるのではないか」とする根拠を何1つ示していないのだから、それが「妥当な考え方」であろうはずはない。 「肯定的(というよりも、一部テレビ番組で報じられるような、過大な効果を期待させるむしろ有害な)なニュース」と比べても、そのニュースが百歩分の過大評価であるのに対してこの方の主張は五十歩分の過大評価であるという五十歩百歩の違いでしかなく、どちらも根拠のない過大評価である。 過大評価の程度を多少控えめにしても、過大評価であることには何ら違いがない。

前回、効くと主張するこの方は何ら「客観的根拠を示」すことなく、効かない根拠を示せと逆ギレしてきた。 効かない根拠を示せと主張するのだから、当然、自身は「(多少は)効くのではないか」「一定の期待は持てる」「それほど高くない一定の確率でがん患者にプラスに作用することがあるのではないか」とする根拠を示さなければならない。

この「それほと高くない一定の確率でガン患者にプラスに作用することがある」と考える主な根拠は、​NPO「丸山ワクチンを考える会」が主催する講演会の内容をまとめた「ご報告」​で具体的な症例が数多く報告されていたからである。

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「具体的な症例」とやらでは何の根拠にもならないと何度言わせるつもりだろうか。 以前にも書いたが「具体的な症例」とやらは様々な可能性を考慮しなければならない。

その真偽を検証しないのでは体験談レベルの話でしかない。 公式サイトにある丸山ワクチン長期使用率については、これらの検証をパスしても、何ら効果を示していないという話には、この方は、一度は噛み付いてきておきながら、完膚なきまでに論破されて以降は完璧に無視している。

というか、この方、この後で「論拠としているのは事実上国会の議事録のみ」「それだけの資料で『真相ガー』というのはあまりにもお粗末」と言っているくせに、ご自分の主張の「主な根拠」は​NPO「丸山ワクチンを考える会」なる信者集団の「主催する講演会の内容をまとめた『ご報告』」では話にもならない。 この方は国会は信用できないのに信者集団は信用できると仰るのだろうか。

ところでこの記事を作成された方、「教養も知能も全くないことがまるわかりの文章でそんなことを書いてもし失笑を買うばかりである」と述べた後、

鉤括弧が複数になっているのは不要な部分を削除しつつも正確な引用をするために一度鉤括弧を閉じただけに過ぎず、「複数案件」「別事例」として扱っていることを意味しない。 両鉤括弧の間に「と」や「や」等の並立助詞が挟まれているのであれば「複数案件」「別事例」であることは言うまでもない。 しかし、並立助詞が間に挟まれていない以上、両鉤括弧が単一案件なのか「複数案件」「別事例」なのか、この一文から読み取ることは不可能である。 これを「どう読んでも」「複数案件という認識で記事を書かれている」「別事例であったと認識している」と読み取るようでは「日本語読解能力に著しい疑問を抱かせる事例」としか言い様がない。​​(引用の変色処理はおいら)

とされるが、「正確な引用」をするならば「一度鉤括弧を閉じる」というのは言語道断の処理であるのは一定の学力を備えた今どきの中学生でも理解できるであろう。 それはさておき、加工者が原文を鍵括弧でわざわざ処理(一般には強調表現にするため)し、加わざわざ並立助詞を入れないで処理していることをもとに「別事例であったと認識する」のは、きわめて自然な読み方である。 もし誤読をしていなかったのならば、ご自身の加工ミスを素直に認めて訂正されるのが筋であろう。くろしお出版からその昔、

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相変わらず、「『正確な引用』をするならば『一度鉤括弧を閉じる』というのは言語道断の処理である」のような論点逸らしがお好きなようである。 それが「言語道断の処理である」かどうかと、その記述を「複数案件」「別事例」として記載したと認識できるどうかは全く別の問題である。 尚、論点とは直接関係がないので簡単に説明をしておくが、引用が終わった時点で鉤括弧を閉じない方こそ引用の正確性を欠く「言語道断の処理」であろう。 正確な引用をするためには、引用が終わった時点で一度鉤括弧を閉じ、再度の引用が始まった時点でまた鉤括弧を開くのが適正な処理である。 「小松製作所の元会長」の「長」の字で引用が一度終了しているのだから、ここで一度鉤括弧を閉じることは正確な引用をする上で必要な処理である。 さらに、「親族の老婦人」の「親」から次の引用が始まるので、ここで鉤括弧を開くことは正確な引用をする上で必要な処理である。 このように、引用の正確さという点において、「ご自身の加工ミス」などは存在しない。 また、「小松製作所の元会長」「親族の老婦人」という表記には、並立助詞が含まれておらず、単一案件なのか「複数案件」「別事例」なのか明記していない。 にも関わらず、「原文」にない「複数案件」「別事例」の意味を読み取ったのは、明らかなこの方の誤読なのであって表記の問題ではない。 だから、表記上も「ご自身の加工ミス」などは存在しない。 ご自分の誤読の責任を擦りつけるために「ご自身の加工ミス」を捏造されても困る。

当方が既に指摘しているように、並立助詞が入っていることを根拠に「『別事例であったと認識する』のは、きわめて自然な読み方」と主張するならわかる。 しかし、「わざわざ並立助詞を入れないで処理していることをもとに『別事例であったと認識する』のは、きわめて自然な読み方」は全く意味不明である。 「複数案件」「別事例」であることを示すもの=並立助詞「を入れないで処理していること」が、どうして、「『別事例であったと認識する』のは、きわめて自然な読み方」となるのか全く意味不明である。 ここまで来ると言い訳も見苦しい。

「加工者が原文を鍵括弧でわざわざ処理(一般には強調表現にするため)」も全く意味不明である。 「加工者が原文を鍵括弧でわざわざ処理」するのは、「強調表現にするため」でも何でもなく、引用を必要最小限度に抑え、かつ、引用範囲を明確にするためである。 鍵括弧の中が「原文」から引用した文言や文章であって、鍵括弧の外は筆者自身の表現であると示すために「鍵括弧でわざわざ処理」するのである。 「原文」の一部を切り出すという「加工」「処理」をする以上、どこからどこまでが「原文」から切り出した表現なのか明示しなければならない。 それは「強調表現にする」こととは全く関係がない。 というより、「強調表現にするため」に「原文を鍵括弧でわざわざ処理」する方が「言語道断の処理」であろう。 著作権的にも常識的にも、原文を引用する時の原則として、引用範囲を明確にしなければならない。 引用範囲を明示するために他の記号等を使っている場合はともかく、鉤括弧で引用範囲を示しているのに、「強調表現にするため」に「鍵括弧でわざわざ処理」しては、鉤括弧が引用範囲を示しているのか強調表現を示しているのか判別できなくなる。 そのような使用記号の意図を不明にする表現では、文章が意思疎通の手段としての意味をなさなくなる。 にも関わらず、この方は「加工者が原文を鍵括弧でわざわざ処理(一般には強調表現にするため)」と主張しており、この方の意思疎通能力が極めて低いことは言うまでもない。

そもそも、引用が一切なくても「一般には強調表現にするため」に「鍵括弧でわざわざ処理」するなんて何を馬鹿なことを言っているのだろうか。 もちろん、「強調表現にするため」に「鍵括弧でわざわざ処理」することは完全に間違ったことではないが、それは「一般」的な表現ではない。 鍵括弧は対話・引用語・題目、その他、特に他の文と分けたいと思ふ語句 くぎり符号の使ひ方〔句読法〕(案) に使うものであって、「強調表現にするため」は「特に他の文と分けたいと思ふ語句」の特殊例にすぎない。 「強調表現にするため」に「鍵括弧でわざわざ処理」すれば、本来の使用例である対話・引用語・題目等との区別がつきにくくなる。 活字では「一般」に「強調表現にするため」には太字や斜体を使うことが多い。 筆記では太字や斜体で区別することは難しいが、それでも下線や色付け等の表現を用いることができる。 さらに、HTMLでは「一般」に「強調表現にするため」にはstrong要素em要素を用いる(HTML5では「強調表現にするため」にmark要素やb要素も用いる)。 だから、常識的な意思疎通能力=国語力がある人ならば、他の表現方法があるにも関わらず「強調表現にするため」に「鍵括弧でわざわざ処理」するような変則的な使い方は極力避ける。 にも関わらず、この方は「鍵括弧でわざわざ処理(一般には強調表現にするため)」と主張しており、この方の意思疎通能力が極めて低いことは言うまでもない。

「くろしお出版からその昔、」が何を意味するのかは全くわからない。

ところで、私の記事

(まあ昔は、学力がなくとも私大の医学部に結構平気で入れましたからね こうした人がいてもおかしくはないのですが)。

について逆上されたのか、

どうでもいいが、「私大の医学部」の下りはちゃんとした大学を出てから言ってもらいたい。 教養も知能も全くないことが丸わかりの文章でそんなことを書いても失笑を買うだけである。

​とされているが、東京医科大の裏口入学事件を機にいろいろ噴き出してきたのですが、この記事をはじめとする裏口関係の話とか全部ウソですかね。 ​記憶では、20年くらい前までは偏差値50を切る私立の医大はそこそこ存在しましたが。​ ​なんか「ご自身に心当たりがある」から「必死になって」書いていると勘繰られますよ(苦笑)​​


ちなみにご指摘の「ちゃんとした大学を出てから」云々であるが、一応一次試験の国語は198点だったと告白しておく。 私のことを「教養も知能も全くないことが丸わかり」と断じているブログの書き手は当然、そのくらいの点数は取れて、私よりも世間的に「ちゃんとした」大学を出ておられますよね(あ、そもそも受験していないかも)。​​

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「一応一次試験の国語は198点だったと告白しておく」は完全な失笑ものである。 何の証拠も示さず、かつ、日本語の不自由さを散々見せつけておいて、「一応一次試験の国語は198点だった」と言われても、「へえ、そう、よかったねw」「ぼくちゃん、すごいでちゅねーw」としか答えようがない。 一般論を言えば、証明できない自身の能力について必死になって自己弁護するのは、「ご自身に心当たりがある」から「必死になって」「逆上された」人の特徴である。 普段からしっかりと裏付けのある言動をしていれば、そのような自己弁護する必要はどこにもない。

尚、「東京医科大の裏口入学事件」とか、唐突に初めての話題を持ち出されても全く何が言いたいのか意味不明である。 まあ、この方の場合は裏口入学以前の妄想入学だろうから、裏口入学の実態を論じる前に、まず、ご自身の妄想癖を直すべきだろう。

どうやら、この方は当方と対等以上の議論ができているつもりらしいが、実際は、当方がこの方を一方的に晒しているだけある。 「こんなに救いようのないアホがここにいますよー!」と指摘しているだけで、まともな反論が帰ってこないのは初めから分かっていることである。 調子に乗って勘違いしないように!

​​「丸山ワクチンの真相」と題して、さまざまに書いておられるが、その真相を論ずる根拠が同サイトの記事では国会の議事録と、週刊誌記事であり、論拠としているのは事実上国会の議事録のみである。 ​​それだけの資料で「真相ガー」というのはあまりにもお粗末ではなかろうか。

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「先生」を自称しながら信者集団の「主催する講演会の内容をまとめた『ご報告』」を「主な根拠」に主張している方こそが「あまりにもお粗末」ではないだろうか。

さらに、反論できないことについては、「その真相を論ずる根拠が同サイトの記事では国会の議事録と、週刊誌記事であり、論拠としているのは事実上国会の議事録のみ」と、その対象を矮小化するのも「あまりにもお粗末」ではないだろうか。 確かに、当方は、「国会の議事録」や「週刊誌記事」を情報を裏付ける手段として利用している。 しかし、「国会の議事録」や「週刊誌記事」で誰それがこういったからそれが正しいという説明は一切していない。 政府が公開している国会議事録は、少なくとも、その国会審議で誰がどんな発言をしたかの事実については疑う余地がないことは前提事項として利用している。 そして、それら事実関係が捏造だとする指摘は、国会議事録の中の質疑にも見られないし、丸山ワクチン擁護者も一切指摘していない。 よって、そこに提示された事実関係を元に、医学的な検証を行なった上で、いずれの提出データも一切丸山ワクチンの効果を証明していないことを明らかにしている。 また、「丸山らがまとめてきたデータ」や「服部隆延先生の論文」については、それら出典論文を示して、その内容の解説も行なっている。 世界医師会のヘルシンキ宣言、日本癌治療学会の癌化学療法効果判定基準等についても、公式サイトにリンクを張って内容の検証もしている。 丸山ワクチンの擁護側の参考人ですら、従来基準に沿ったデータを出さなかったこと、および、丸山ワクチンでは従来基準をパスできないことを認めているので、審査に不正があったのではなく、申請に不備があったことも明らかになっている。 以上を踏まえて真相を推測している。 それに対する反論を避けていることを指摘されたからといって、相手の主張を矮小化して誤魔化すのでは「あまりにもお粗末」ではないだろうか。

そもそも、この方は、最初、「この記事でも引用している下記リンク先の、国会でのやりとりを初めから全部通読すると、普通の読者の方には、週刊誌記事のほうが妥当と思えるのでは無かろうか」と主張していた。 持論に都合が良いと判断した時は持論を裏付ける資料として利用しておいて、論破されて言い返せなくなった途端に「それだけの資料で『真相ガー』というのはあまりにもお粗末」では、掌返しが酷すぎるのではないか。 ようするに、この方にとっての資料採用基準は持論に適合するかどうかの一点のみなのである。 持論に適合するものは無条件に信用し、持論に適合しないものは無条件に疑うのである。 だから、持論に適合すると判断した時は持論を裏付ける資料として採用しておきながら、持論に適合しないと分かった途端に「それだけの資料」に格下げできるのである。 この方にとっては、持論に適合する資料は内容の妥当性に関係なく信奉すべき資料であり、持論に適合しない資料は内容の妥当性に関係なく見る価値もないゴミなのである。 だから、この方は、この資料のこの部分はこう言う理由で信用できるとか、この資料のこの部分はこう言う理由で信用できないという主張は一切しないし、かつ、できない。 このことは、この方が、中立的、かつ、客観的に資料の内容を検証する能力を欠いていることを示している。

多忙なので、該当サイトの記事に対し、とりあえず軽く一つだけ。

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以前にも書いたが、多忙であるなら、何故、核心部分に明確な反論をしないのか。 論点逸らしと見当違いな揚げ足取りと印象操作をする時間があるなら、その時間を正面切った反論に使えば良い。

なおうっかりここまで当ブログ記事を読み進めてしまった方で、丸山ワクチンが認可されなかった事情について興味のある方は、興味深い記事として「丸山ワクチンを考える会」の第六回講演会や第十二回講演会を参照されたい。

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最初に断っておくと、「第六回講演会」における「丸山ワクチンが認可されなかった事情」とやらは、真っ当な証拠を提示していないということ以外には何も示されていない。 その説明に該当する「6.」は、当方で既に詳細に論破済みであり、この方もその内容を読んでいるはずであるが、この方は綺麗さっぱり無視している。 「第十二回講演会」に至っては、「丸山ワクチンが認可されなかった事情」とやらに該当する記述が全くない。

まず、「第六回講演会」であるが、「4.」までは丸山ワクチンと関係がない。

「5.」は基礎研究と症例しかない。

「6.」の殆どは丸山ワクチン関連国会議事録で否定される内容ばかりである。 服部氏は「SSMとマイトマイシン、5Fuを併用した群、32例です。これは1年生存率が28.1%、私どももびっくりしたのです。2年生存が9.4%、それともう一つはマイトマイシン、5Fuという化学療法だけだと1年が1.5%、2年はゼロという驚くべきデータ」と主張する。 しかし、服部氏が発表した論文では「マイトマイシン、5Fuという化学療法だけ」のデータは取っておらず、他の論文のデータを引用してるだけである(丸山ワクチンの効果参照)。 これでは比較する両者の層(がんの大分類、小分類、病期、治療歴等)が揃っているかどうかが明確ではないので丸山ワクチンの効果を証明したとは言えず、「驚くべきデータ」とも到底言えない。 他の論文のデータとの比較が証拠とならないことは、図らずも、「第十二回講演会」で紹介された2度の臨床試験データが見事に証明している。 「愛知癌センターの外科部長の中里先生のグループ、東海グループ」と「東北大学第3内科の後藤教授」も丸山ワクチン関連国会議事録で説明された通りのものであれば、「たしかに生存率は延びているの」とは到底言えない(丸山ワクチンの効果参照)。 「慢性膵炎と間違ったのではないか」も丸山ワクチン関連国会議事録で適切に説明されている。 以上のことを当方が詳細に論破していることは、この方も当然知っているはずであろう。 それなのに、何故、具体的な反論をせず、都合の悪いことから目を逸らさせようとするのか。 尚、「欧米での国際癌学会で丸山先生が話されたときには、向こうですごい評価を受けた」という主観論は何の意味も持たない。 本当に欧米で高く評価されているなら、未だに欧米で承認されないのはおかしい。 以上をまとめると、この方の言う「丸山ワクチンが認可されなかった事情」とは、申請データとして科学的証拠になるものを何も出さなかったというオチでしかない。

「7.」は、自覚症状に関することなので盲検法でなければ証明できないが、基礎研究と症例データしかない。

「8.」は伝聞に基づいた想像でしかない。

丸山ワクチンの効果に「第十二回講演会」(子宮頸がんの臨床試験)の詳細をまとまる。

  • 少なくとも、放射線療法と併用する場合は「丸山ワクチンと同じ成分のお薬をたくさん使用したら毒になる」可能性が高い(否定的データは採られていない)
  • 丸山ワクチンには劇的な効果はない
  • 丸山ワクチンに多少の効果があるかどうかは証明されていない

これのどこにも「丸山ワクチンが認可されなかった事情」の説明は含まれていない。 また、このデータからは「それほど高くない一定の確率でがん患者にプラスに作用することがある」などとも到底言えない。 この講演で藤原氏は劇的な効果がないものを証明するためには地道な統計データの積み重ねが重要であることに言及している。 つまり、藤原氏は統計処理されない「具体的な症例が数多く報告」では丸山ワクチンの効果を証明できないと明言しているのである。 しかし、この方は、そうした持論に都合に悪いところは完全に無視している。

ただし、丸山ワクチンが「それほど高くない一定の確率でがん患者にプラスに作用する」物質である可能性は多く見積もれば数%程度あるかもしれないと主張すれば過大評価とは言えない。 もっとも、そのような物質は丸山ワクチン以外にも掃いて捨てるほどある。 丸山ワクチンよりも有望な物質に限定しても、かなりの数が存在している。 また、丸山ワクチンの有害性に有意差が認められるデータが出ており、これは多く見積っても数%程度の「それほど高くない一定の確率でがん患者にプラスに作用する」物質である可能性より極めて重大である。 有害性については有意差が出ているのに対して、効果については有意差が出ていないのだから、現時点では、丸山ワクチンを投与しない方が良いことは言うまでもない。

丸山ワクチンの統計処理については、興味深い記事を成蹊大学の新村秀一氏の記事を最近発見した

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独自基準の丸山ワクチン研究リンク先の情報も含めた新村氏の論文を紹介するが、その内容は学術とは到底言えないデタラメなものである。 もちろん、とっくに論破されている話やデタラメな話しか挙げられない自称先生が論外であることは言うまでもない。

(秋山仁博士が日本医科大の講師時代に丸山ワクチンに関して統計処理に携わったと直接秋山博士から話を伺ったこともあるが、機会があれば触れたい)

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なお、秋山仁氏が数学教育の面で優秀なことは疑う余地がないが、数学研究における実績ではほぼ無名である。 だから、「秋山仁博士が日本医科大の講師時代に丸山ワクチンに関して統計処理に携わった」という話はエピソードとしては面白いかもしれないが、そのエピソードは何ら丸山ワクチンの効果を証明しない。 本当に多忙なら何ら効果を証明しない話について「機会があれば触れ」る余裕などないはずである。

まとめ 

この方の主張の姿勢 

この方の主張の姿勢は、最初から一貫して次の通りである。

  • 自分が正しいと信じることは無条件に“真実”であるので、その真偽を検証する必要はない
  • “真実”と食い違う主張は無条件に“正しくない”ので、その真偽も検証する必要はない

だから、この方は、持論に適合する情報を見つければ、その内容の妥当性を全く検証することなく、持論が正しい証拠として扱う。 そして、この方は、持論に反する情報を見つけると、その内容の妥当性を全く検証することなく、見る価値もないゴミとして扱う。 この方にとっての情報の取捨選択基準は、その内容の妥当性ではなく、持論に合うかどうかである。 結果、この方は次のように行動する。

  • 自分で自分の信仰を支えるのに必要な程度の説明しかしない
    • 真偽の検証に要する内容は殆ど説明しない
    • 持論と食い違う意見に対しては、否定はしても、反論まではしない
  • 他人の説明は、持論の結論の方向と一致するかどうかで判断する
    • 持論の結論と一致すれば、どんな荒唐無稽な説明も真に受ける
    • 持論の結論と一致しなければ、全て頭ごなしに否定する

そんな主張が通るなら、世の中には人の数だけ“真実”が存在することになる。 たとえば、丸山ワクチンが効くと主張する人にとってはそれが“真実”となり、丸山ワクチンが効かないと主張する人にとってはそれが“真実”となる。 この真逆の“真実”がどちらも“真実”であるなら、一体、どちらが正しいのか。 個人個人の主観的な“真実”の食い違いを受け入れるなら、webで情報を発信する意味はない。 何故なら、webでどのような情報を発信しようとも受け止める側は自分が信じる“真実”しか受け入れないなら、どんな情報であっても他人の意見に影響を及ぼすことは不可能だからである。

良識のある人ならば、自分が正しいと信じることが必ずしも真実とは限らないと知っている。 だから、常に持論が正しいかどうか検証しようとする。 そのため、不特定多数との情報交換にあたっては、自分の主張を丁寧に説明し、かつ、相手の主張にも真摯に耳を傾ける。 だから、良識のある人は、次のように行動する。

  • 真偽の検証を要する部分に対して、その真実性の理由を丁寧かつ十分に説明する
  • 他人の説明は、持論の結論の方向との一致性とは無関係に、説明内容の妥当性で判断する
    • 持論に適合する情報を見つけても、その内容が妥当性を欠く場合は、見る価値もないゴミとして扱う
    • 持論に反する情報を見つけると、その内容に妥当性があれば、持論を修正すべきかどうか検討する

自分の信じることを贔屓目に見ることによって生じる偏りを確証バイアスと言う。 確証バイアスは誰に対しても判断に影響を与える。 いくら中立的・客観的に努めようとしていても、確証バイアスを100%完全に封じ込めることは不可能である。 しかし、良識のある人ならば、どんなに確証バイアスに捕らわれようとも、中立的・客観的であろうとして確証バイアスを封じ込める努力をする。 確証バイアスを封じ込める努力をせず、自分が信じることが常に絶対的な“真実”だと信じて疑わないなら、それは中立性・客観性の欠如である。

良識のある人から見れば、この方の主張は論点逸らし以外の何物でもない。 しかし、ご本人にはその自覚は全くないのだろう。 何故なら、この方の主張の姿勢は、最初から一貫して次の通りだからである。

  • 自分が正しいと信じることは無条件に“真実”であるので、その真偽を検証する必要はない
  • “真実”と食い違う主張は無条件に“正しくない”ので、その真偽も検証する必要はない

さらに、この方にとっては自分の中だけで世界が完結しているので、この方は、絶対的な“真実”が正しい理由をわざわざ説明する必要を感じないのである。 同様に、この方は、絶対的に“正しくない”ことが間違っている理由をわざわざ説明する必要を感じないのである。 正常な意思疎通能力のある人ならば、自分と他人は違う考え方をするのだから、正しい理由や間違っている理由を説明しなければならないことを理解する。 しかし、この方にとっては自分の中だけで世界が完結しているので、この方は、正しい理由や間違っている理由を説明しなければならないとは全く思わないのである。

プロファイリング 

この方の意思疎通能力の致命的な欠如については具体例で説明した通りである。 その主たる原因は、この方にとっては自分の中だけで世界が完結しているからであろう。

「一応一次試験の国語は198点だった」という必死の自己申告は、この方の自意識過剰さを浮き彫りにしている。

「この記事を書いた方のお好きな表現をつかうならば」という本質を真似ないで形だけ真似た猿真似や、「私の記事」「について逆上されたのか」と主張するあたり、この方は、対等以上の議論ができていると勘違いしているようだ。 池乃めだかのギャグじゃないんだから(笑)。

実際の主張内容 

この方が最初に当方に噛み付いてきた時、「この記事は(一部の人には一定の)効果があるという大前提で書かれて」いることを理由に「指摘は的外れ」と主張していた。 それについては、既に指摘している通り、「この記事は(一部の人には一定の)効果があるという大前提」の真偽を検証しなければ話にもならない。 しかし、この方にとっては、自分が正しいと信じることは無条件に“真実”であるので、この「大前提」の真偽を検証する必要などないのである。

また、この方が最初に当方に噛み付いてきた時、「たとえばこの記事でも引用している下記リンク先の、国会でのやりとりを初めから全部通読すると、普通の読者の方には、週刊誌記事のほうが妥当と思えるのでは無かろうか」と主張していた。 それについては、既に指摘している通り、次のような「国会でのやりとり」の妥当性を検証すれば、少なくとも、丸山ワクチンの審査が適正に行われたことは明らかであり、「週刊誌記事のほうが妥当」とは到底言えない。

  • 科学的にデタラメな申請時データ
  • 申請時に承認基準に沿ったデータがなく、追加データは承認基準をパスしておらず、敗者復活戦が設けられた
  • 2件の比較臨床試験の評価に関する科学的に妥当な説明
  • クレスチン等に関する利益相反等の一定の印象を抱かせるが、丸山ワクチンに対する不正の証拠とはならない話

これを「週刊誌記事のほうが妥当」と判断するためには、「週刊誌記事のほう」に適合する証言は全て、その内容の妥当性を全く検証することなく、「週刊誌記事のほうが妥当」な証拠として扱う必要がある。 また、「週刊誌記事のほう」に反する証言は全て、その内容の妥当性を全く検証することなく、見る価値もないゴミとして扱う必要がある。 この方のそうした中立的・客観的の欠如を指摘したが、未だに反論は何も帰ってこない。 それどころか、「週刊誌記事のほうが妥当」とは到底言えないことを認めざるを得なくなった途端に、「それだけの資料で『真相ガー』というのはあまりにもお粗末」と「国会でのやりとり」全体を見る価値もないゴミとして扱っている。

この方が最初に当方に噛み付いてきた時、「回復によりワクチンを終了した人や途中で追跡調査ができなくなった人が含まれる」などという都合の良い想像で「効果があったかどうかについて、3年以上、5年以上使用率より数字がすこしばかり期待出来る可能性がある」と主張していた。 このように、この方は、持論に適合するのであれば、それが想像に過ぎないことであっても、持論が正しい証拠として扱っている。 その際、「30日持たなかった末期の人は数字から除く」と自ら指摘しておきながら、それが丸山ワクチンに有利なようにデータを加工していることは無視している。

この方は、「​NPO『丸山ワクチンを考える会』が主催する講演会の内容をまとめた『ご報告』​」を2つ挙げているが、その一方の主要な内容の誤りは当方が既に指摘している通りであり、それに対するこの方の反論はない。 このように、この方は、持論に反する情報があっても、その内容の妥当性を全く検証することなく、見る価値もないゴミとして扱っている。 もう一方も「それほど高くない一定の確率でがん患者にプラスに作用することがある」ことを証明したとは到底言えない代物である。 このように、この方は、持論に適合する情報を見つければ、その内容の妥当性を全く検証することなく、持論が正しい証拠として扱っている。

この方は、新村秀一氏の記事を挙げているが、既に指摘した通り、統計における最低限のお約束すら守っていないが故に適切に記録されていないデータに対して、都合の良い想像での補完のうえ、無理矢理な定量的解析を行なったものである。 また、他の臨床試験の結果と照らし合わせても明らかに矛盾した結果となっている。 このように、この方は、持論に適合する情報を見つければ、その内容の妥当性を全く検証することなく、持論が正しい証拠として扱っている。 秋山仁氏のエピソードとしては面白いだけであって科学的には何の意味も持たない。

以上のとおり、この方の姿勢は以下のように常に一貫している。

  • この方は、持論に適合する情報を見つければ、その内容の妥当性を全く検証することなく、持論が正しい証拠として扱う。
  • この方は、持論に反する情報を見つけると、その内容の妥当性を全く検証することなく、見る価値もないゴミとして扱う。

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